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家康公が愛したまち静岡

■駿府城探検 報告記

『巽櫓』の見学と駿府城の解説(幹事対象)(令和6年6月22日)

今回の視察会は、本会の幹事を対象として、静岡市歴史文化課駿府城天守台発掘調査員の松井一明氏による解説付きの深堀研修事業として実施しました。参加者は、藤井会長、久保田副会長を含め8名の幹事、オブザーバーとして静岡市歴史文化課の松下係長、それに事務局2名の総勢11名でした。
9時45分に、駿府城公園東御門を入って直ぐ右側の発券所前に集合し、10時に東御門・巽櫓内の展示スペースに入りました。
まず、入場してすぐに「駿府城のジオラマ」があり、駿府城全体のイメージを掴むことができました。ここで松井調査員が「本丸堀・二ノ丸堀と三ノ丸堀の方向がズレてますね。なぜでしょうか?」と参加者に問いかけました。この事実は承知していてもその理由まではよく知らない人がほとんどでしょう。松井調査員によれば、本丸堀と二ノ丸堀は天正期に築かれたが、三ノ丸堀は慶長期に都市計画に基づいて城下町を整備したときに築かれたため、ということでした。



以下、松井調査員に依頼し、当日の説明内容の概要をまとめてもらった資料をそのまま掲載します。

1、今川期コーナーの説明
これまでの発掘調査の成果から、今川氏館は複数の屋敷からなっており、概ね現在の坤櫓から天守台までの範囲に広がっていたと推定されている。とくに坤櫓北側の調査区からは、庭に伴う池や館を区画する堀が発見され、今川氏館に関係する遺構だと判明した。この場所からは守護大名クラスの館から出土する金箔かわらけが出土している。天守台調査地点からも希少価値の高い赤色染付の壺(釉裏紅)、青磁や染付の水盤や壺などの高級中国製磁器が出土していることから、今川氏館の存在が裏付けられた。
今川氏館の中枢部で発見された溝や堀の主軸方向が、慶長期駿府城の本丸堀や二ノ丸堀の主軸方向と一致することから、今川氏館の堀の主軸方向に合わせて駿府城の本丸堀と二ノ丸堀が掘られたと考えられる。三ノ丸堀については江戸時代の東海道の主軸方向に合わせて掘られているため、慶長期駿府城の大改修にあたって、東海道を城下町に取り込んだ区画整理に合わせて三ノ丸堀が設定されたと考えられている。また、三ノ丸の四足御門の名称が、今川氏館の正門にあたる四脚門に関係しているならば、四足御門周辺は、これまでの発掘調査成果に基づく今川氏館の推定範囲内で、正門が置かれた場所だと考えられる。
天守台の発掘調査では、今川氏段階の最終の遺構面や池状遺構から焼土が見つかっているほか、焼けた陶磁器が出土しており、館が廃絶される時期に火事のあったことが判明した。伝承によると永禄11年( 1568 )、武田氏の駿河侵攻にあたり武田氏が今川氏館を焼いたとされている。しかしながら、占領後に財産となり得る今川氏館の建物や貴重な陶磁器などの資財を武田氏が意図的に焼いたとは考えにくく、今川氏真が館を退去した時に、これらの財産を武田氏に渡すことを避けるため、館に火をかけた可能性も考えられる。



2、天正期駿府城コーナーの説明
徳川家康は天正13年(1585)、駿府城の築城を始めた。この時には御殿を建てた記録がある。前年の天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで家康と織田信雄は、羽柴秀吉(天正14年(1586)9月豊臣姓を賜る)と織田家の覇権をめぐって戦ったが、戦いの決着がつかず信雄と共に家康も秀吉と和睦した。和睦後も秀吉との緊張関係が続いたため、前線からより遠い駿府に拠点を設けた可能性が考えられる。天正13年11月、天正地震が美濃・尾張を中心として発生し、秀吉の家康との戦いのための前線基地としていた大垣城などに甚大な被害が出たことにより、秀吉は家康との戦いを避ける方針に転換した。秀吉妹の旭姫を家康の正室とするなどの懐柔策により、家康は天正14年10月に大坂城にて秀吉に臣下の礼を示し、豊臣家臣としての地位を得た。
その年の12月、家康は浜松城から駿府城に本拠地を移し、翌天正15年(1587)から駿府築城を本格化する。家康家臣の松平家忠日記には、天守と小天守、石垣と堀を有する、本丸と二ノ丸からなる城が築かれたことが記されている。今回の天守台の発掘調査で慶長期天守台の内部から全く別の天守台と小天守台が発見され、これは家忠日記に記された家康が築いた天正期駿府城の遺構だと判明した。天正期天守台の大きさは確認面で一辺30m以上ある巨大なもので、この大きさの天守台は現在残されているものとしては会津若松城の天守台で、記録から見ても豊臣大坂城の天守台しか類例がないと見られる。さらに、発掘調査では金箔瓦が大量に出土しており、天正期駿府城には、金箔瓦によって飾られた豊臣大坂城天守に倣った天守があったことも判明した。このように、豊臣政権の居城である大坂城にも匹敵するかのような天守・天守台が駿府城に築かれた背景には何があったのだろうか。
説明者は、豊臣政権によって私戦を禁じる関東・奥州惣無事が発令され、関東・東北の諸大名が惣無事令に従い豊臣 家臣になることの取次役を任された豊臣家臣の家康の城としての権威を示すことが築城の目的であり、天正期駿府城は豊臣政権の有力大名であった徳川家康の居城として、豊臣政権の東国政策において重要な役割を果たしていたと考えている。
天正18年(1590)、秀吉による北条氏の小田原城攻めの後、北条氏は滅び、佐竹氏、伊達氏や南部氏など関東・東北の諸大名も秀吉の家臣となり天下統一がなされた。駿府城の家康も関東に移封となり、駿府城には中村一氏が入城する。この時期の東国における金箔瓦のある城は、東海道の駿府城以外には、甲州街道沿いに甲府城、東山道沿いに沼田城、上田城、松本城がある。
これらの城は家康をはじめとした関東・東北諸大名の領国との境目であり、かつ大坂城や京都の聚楽第など関西に行くための主要街道沿いの場所である。また、家康の居城となった江戸城は、金箔瓦はもとより天守や瓦葺の建物もない、駿府城とは異なる城であったと考えられている。この時期の関東・東北地方において、石垣造りで金箔瓦の葺かれた天守のある城は、会津若松城と山形城以外では確認されておらず、多くの関東・東北の諸大名の居城は戦国時代と変わらない石垣も天守などの瓦葺建物もない土造りの城であった。
説明者は、このような石垣造りで金箔瓦の葺かれた天守のある城は、豊臣政権の政治目的のために築城されたものであり、関東・東北の諸大名に荘厳な城を見せつけることにより、それらの諸大名への牽制、すなわち戦わずして恭順させるという城郭政策があったと考えており、このことから天正18年以降の駿府城は必ずしも城主個人の城ではなく、豊臣政権即ち天下人秀吉の城としても位置付けることができるのではないかとの仮説を考えている。
静岡市歴史博物館建設の事前に行われた発掘調査によって発見された「道と石垣の遺構」は、石垣の特徴から天正期に属するため、家康か中村氏の時期によるものと考えられる。調査区内で門が確認できないことから、広い重臣屋敷に面した城道で、主軸方向は慶長期の三ノ丸堀と一致する。慶長期駿府城の絵図によると。慶長期三ノ丸にあった家康重臣屋敷に面した道の主軸は、二ノ丸堀のそれと一致しており、今回見つかった天正期の道の主軸方向とは異なっている。
説明者は、天正期の城外で唯一この付近から中村氏段階の瓦が出土していることから、発掘された「道と石垣の遺構」は中村氏の重臣屋敷の城道であり、中村氏によりはじめられた城下町の区画整理の主軸方向と一致させた可能性があると考えている。

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3、慶長期駿府城コーナーの説明
慶長期駿府城は慶長12年(1607)より、将軍職を嫡男秀忠に譲った家康が隠居城として大改修したものである。天守台の発掘調査では、天正期天守台の大半を破壊して完全に埋めてしまい(破城)、それとほぼ同じ場所により大きな慶長期天守台を築いていたことが判明した。また、大量に出土した金箔瓦を含む天正期の瓦は再利用されることなく細かく割られて地中に廃棄されていた。
このことから、説明者は、慶長期駿府城の大改修とは、豊臣家臣時代の築城という家康にとっての不都合な歴史を封印し、豊臣の天下から徳川の天下になったことを知らしめるために行ったものではないかと考えている。
天守台の周囲の堀は幅約20m、二ノ丸堀や三ノ丸堀でも広いところでも幅約30m程度しかない。二ノ丸や三ノ丸の曲輪の広さも細長くてそれ程広いものではない。
説明者は、当時の大砲などの射程を考えると防御が弱い構造であったと見ることができることから、必ずしも従来言われていたような江戸城防御の要の城としての性格を示す構造ではなく、徳川政権を盤石なものとするため、政策立案を担った今で言うところの内閣府や総理官邸のような政庁としての性格がより強い城であったと考えている。
発掘調査で見つかった天守台は、その大部分が明治時代の陸軍兵営整備のための破壊により失われていたが、天守台の絵図『駿府城御本丸御天主台跡之図』(静岡県立中央図書館蔵)に示された規模とほぼ一致するため、この絵図との照合が可能となった。天守台の天端の構造は四辺を石塁で囲まれており、この範囲と幅8m前後ある栗石の範囲が一致することが判明した。『当代記』によると天守1階の規模は12間(約24m)×10間(約20m)と書かれているが、天守台の天端の規模はこれよりも大きいことから、天端一杯ではなく、石塁の内部に天守が建てられていたことになる。さらに、『駿州府中御城図』(大日本報徳社蔵)の天守部分の描写から、四方の石塁上に渡櫓、四隅に櫓を構えた環立式天守であることが想定されている。環立式天守は後に築城された淀城天守しかない、珍しい天守形式である。
『当代記』によると、慶長期天守は7階建で、1階と2階には屋根がなく、3階は土瓦、4~ 6階は白蝋板張(錫と鉛の合金か)の瓦、7階は銅板張瓦で金の鯱がのっていた。慶長期の天守で金属瓦が採用されていたのは、江戸城の鉛板張瓦、名古屋城の最上階の銅板張瓦のみで、家康直々に築城したこの3城しかない。この点においても豊臣時代の金箔瓦が葺かれていた天守とは異なる屋根瓦としたことで、徳川時代になったことを城で示したと考えられる。



現在のところ駿府城の天守についてある程度信頼できる記録としては『当代記』しかなく、『当代記』以外の『慶長見聞録』などの史料は記載内容から『当代記』の後の写しと考えられる。『当代記』には、各階の平面の間口や屋根瓦の種類、破風の存在などが書かれているが、立面を復元するにあたって必要な各階の高さ、屋根の形態、窓や破風の数や位置などの情報については書かれていない。天守を復元するにあたり、必要となるこれらの情報を記した設計図や絵図などの史料・資料は今のところ存在しない。何人かの建築史学者により、駿府城天守に関する復元的考察が行われている。それらによると大屋根の上に望楼が付く望楼式天守、各階2間以上間口を減らした層塔式天守の概ね2つの推定案が示されているが、どちらが駿府城天守により近いものとなるかは、『当代記』からは読み取ることはできない。よって、各階の高さや、屋根の形態、破風、窓の数や位置も、ほぼ同時期に築かれた姫路城天守(望楼式天守)や名古屋城天守(層塔式天守)などを参考にして推定するしかないのが現状であろう。今後、慶長期駿府城天守をより正確に復元するためには、立面の記録が記された設計図や絵図など新たな史料・資料が発見されたのちに検証すべきであろう。 慶長期の展示品として注目されるのは鋳造の青銅製鯱である。成分分析によって中国製の鉛を使用していることが確認されている。現在のところ江戸時代で中国製鉛を使用している製品は知られていないので、慶長期に中国(明)からもたらされた鉛を用いて製作された鯱であることが判明した。目の部分からは金箔の成分が検出され、江戸後期の修理記録に鯱の目に金箔を貼ったことが記されていることから、江戸後期以前にすでに存在していた鯱であることも確認できた。慶長期の青銅製鯱としては現在最古級の鯱になる可能性が高く、慶長期駿府城の重要性を示す貴重な文化財である。



松井調査員の詳細かつ専門的な解説により、改めて駿府城とそれを巡る歴史的背景を深堀することができました。とりわけ、一通りの解説後も参加者からの矢継ぎ早の質問に対しても時間を忘れて丁寧に対応していただきました。松井さん、ありがとうございました。



(文責・事務局長 木宮岳志)