駿府城を愛する会


TOP
what's new
駿府城を愛する会とは
公開資料
会員募集
事務局・アクセス
リンク集
お問い合わせ
家康公が愛したまち静岡

■講演会 報告記

「静岡市が構想する駿府城跡天守台野外展示事業はこれだ!」
(令和6年7月13日10時~11時半、アイワホール)

今回の講演会は、静岡市歴史文化課駿府城エリア活性化係の松下高之係長を講師としてお迎えしました。様々な絵図や写真をパワーポイントで示しながら、駿府城の歴史と特徴、駿府城跡の使われ方、天守台発掘調査でわかったこと及び野外展示の取り組みについて、軽妙な語り口でわかりやすくお話しくださいました。参加者は、会員13名、非会員19名、事務局2名の合計34名でした。


一、松下高之氏のご紹介

【略歴】
・1976年静岡市出身。早稲田大学で考古学を専攻。
・大学卒業後は、都内で発掘調査や歴史資料館勤務を経験後、静岡市役所に勤務。
・2018年から駿府城跡天守台発掘調査や発掘調査現場の公開を担当。
・2021年から静岡市観光交流文化局歴史文化課駿府城エリア活性化係長。

二、講演の主な内容
1、駿府城の歴史と特徴
1)駿府城内には、駿府城が築かれる前の弥生時代以降の遺跡と今川氏の館跡が存在している。駿府城は天正期と慶長期の2回築城されており、慶長期の駿府城は大御所時代の家康が天下普請で築城した。
2)慶長期の駿府城は、三重の堀と本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる輪郭式の城である。
3)寛永期の火災により、天守等が焼失し、以降天守は再建されず、今日に至っている。また、宝永期と安政期には大地震により、石垣等が倒壊した。
4)現在も、市街地の中に堀や石垣などの城の痕跡が残っている。

2、駿府城跡の使われ方
1)駿府城跡のこれまでの使われ方を考える視点は2つあると考えている。この2つの視点は、駿府城を愛する会の目的にも示されている「家康公の歴史的偉業の顕彰」と「駿府城の整備」である。前者は調査研究をして史実を明かにしていくことであり、後者は城跡をある目的に使うために整えることである。
2)明治維新以降、廃城を免れたものの、暫くは荒廃したまま放置されていた。明治24年、駿府城跡の本丸と二ノ丸部分は静岡市に払い下げられたが、静岡市は地域振興のため国に土地を献納して陸軍歩兵第34連隊を誘致した。そのため、天守台は壊され堀は埋められたので、城や歴史への関心が少なかった時代だと言える。なお、三ノ丸部分は学校や官公庁などの公共施設のエリアになった。
3)戦後、駿府城跡は再び静岡市が再び払い下げを受け、本丸、二ノ丸部分を駿府公園として、戦災復興のなかで、野球場、テニスコート、駿府会館、児童会館、西洋風の庭園(沈床園)、モニュメント、植樹など様々な公園施設が整備されていった。城跡としての建物などの復元や整備は行われなかった。歴史学や考古学の分野でも、城跡は戦争に関わるものであり、研究対象にしないという風潮もあり、駿府城に関する調査研究も進展しなかった。
4)ところが、昭和44年に青銅製鯱が発見されると大きな話題になり、昭和50年代に発掘調査が開始され、特に静岡県立美術博物館(現在の県立美術館)建設計画に伴う発掘調査により、今川氏関連の遺跡が発見され保存されるに至った。さらに、「駿府城内外覚書」の情報提供により、史実に基づく建物復元が期待されるようになった。
5)平成元年に巽櫓が復元され、同3年には「駿府公園基本計画」が策定された(同17年に再評価を実施)。この計画では、歴史遺産の保存・再整備、都市の公園機能の強化、防災機能の確保の3つを基本方針としている。これを受けて、同8年に東御門、同26年に坤櫓がそれぞれ復元され、さらに、平成13年に紅葉山庭園が整備されるなど、城跡としての歴史の雰囲気が感じられる公園としての整備が行われるようになった。家康公駿府入城400年や家康公薨去400年の記念事業の開催を契機とした関心の高まり、そして学術的な史料調査や発掘調査などの成果により、駿府城の歴史への関心が高まる中で、平成26年に駿府公園が駿府城公園に名称変更された。

3、全国の城跡における建物再現の状況
1)明治維新後、城は無用の長物となり、幕末に残っていた一部の天守も破壊されることがあったが、その後、昭和初期には大阪城天守閣が復興されるなど、天守閣の再現が行われるようになり、特に戦後は、戦災復興のなかで、まちの象徴として天守閣が復元される事例が相次いだ。天守の外観を再現したコンクリート製の天守閣もあったが、史実とは異なる建物や元々天守がなかった場所に天守閣が建てられる事例もあった。
2)その後、世界レベルでの文化遺産保護・活用に関する考え方の変遷も反映して、現在、城跡などの文化遺産において、天守等の歴史建造物を再現するにあたっては、①正確な資料に基づいた史実に沿った建物であること、②本物の文化遺産(遺跡)を破壊しないことの2つの条件が必要だと考えられるようになっている。
3)現在、名古屋市において名古屋城木造天守整備の取り組みが進められている。名古屋城天守は太平洋戦争の空襲で焼失するまで現存し、江戸、明治、大正、昭和の各時代の膨大な記録、絵図、写真、実物資料が残っている。これら信頼性の高い資料を基に、資料どうしの相互検証も行いながら、正確な建物復元のための地道な作業を積み重ねたうえで整備が進められている。また、現存する天守台の石垣を破壊しない整備方法も検討されている。

4、天守台発掘調査でわかったこと
1)天正期天守台の下層から今川期の遺構と遺物が発見されて、今川氏の館の一画だった可能性があること。
2)新たに天正期天守台が発見され、また金箔瓦が出土したことから、天正期の豊臣政権下でも慶長期の時とほぼ同じ場所に天守があったこと。
3)慶長期天守台により天正期天守台の上半分が壊されて、慶長期の天守が築造されたこと。
4)慶長期天守台の北東部に新たな埋没石垣が発見されて、慶長期天守が築造される前に別の天守台が築かれようとしていた可能性があること。
5)石垣に多様な刻印が発見されて、全国の大名を動員した慶長期駿府城の天下普請で築造されたことが明らかになったこと。
6)石垣の積み直しが発見されて、地震後に復旧されたことが明らかになったこと。
7)明治や昭和の土地利用(天守台の破壊と新たな建物の建設)の痕跡を確認できたこと。
⇒今回の天守台発掘調査によって、駿府城は、①天下人・徳川家康にふさわしいここにしかない天下の名城、②徳川家康の一生が見える城、であることが明らかになった。家康公が築かせた本物の石垣が現存し、それを実際に見ることができる。このような城は他に類例がなく、その歴史的な価値は大きい。

5、野外展示の取り組み
1)発掘調査でわかった天守台・石垣の現状を踏まえて、家康公時代の本物の価値ある天守台をなるべく埋め戻さず、公開しながら保存・活用していきたいと考えている。将来の様々な可能性に向けて、今の状態を残していくことになる。
2)野外展示は、駿府城公園やその周辺のエリアを範囲とするフィールドミュージアムの野外と位置付け、本物の文化遺産が持つ価値や迫力を、魅力的に伝えることができるものにしていきたい。駿府公園基本計画に基づく整備であり、2つの天守台の観察と修復を行いながら公開し、観光や子どもたちの学びなどに活用できる場として整備していく。
3)発掘された天守台と水堀の保存と展示、より近くから安全に見学できる動線の整備、ガイダンスや休憩施設の整備などを行っていくほか、デジタル技術を活用した天守などの再現も行っていく予定で、設計、工事を経て、令和9年度からの公開開始を目指している。
4)デジタル技術を活用した再現は、現在、発掘調査現場をそのまま公開しているが、それだけではより多くの人が駿府城や家康公の歴史を楽しく体感することができないので、天守などの高精細なCGを作成して、それを基にVRやARを制作し活用することで、歴史を楽しく体感し、歴史散策を楽しもうとするための取り組みである。現在このための寄附を募っていて、事業費1億円の半額である5,000万円を集めることを目指している。


(文責・事務局長 木宮岳志)