駿府城を愛する会


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家康公が愛したまち静岡

■駿府城天守の魅力~構造上の特徴~ 報告記

(令和7年9月7日13時半~15時、クーポール会館5階)

今回の講演会は、名古屋工業大学名誉教授の麓和善氏を講師としてお迎えしました。様々な絵図や写真をパワーポイントで示しながら、天守様式の発展過程、駿府城の歴史、駿府城の構造上の特徴について、熱心かつ分かりやすくお話しくださいました。参加者は、会員18名、非会員113名、事務局2名の合計133名でした。また、県外からの参加者は、東京都1名、横浜市2名、愛知県豊川市1名、豊橋市1名、三重県津市2名の合計7名でした。


一、麓和善氏のご紹介
【略歴】
・1956年香川県生まれ。名古屋工業大学大学院修士課程修了。
・財団法人文化財建造物保存技術協会、名古屋工業大学大学院教授を経て、現在は名古屋工業大学名誉教授、麓和善伝統建築設計事務所代表。
・工学博士。専門は、日本建築史・文化財保存修復。



二、講演の主な内容
1、天守様式の発展過程
 1)日本の城は、中世が土造と土塁、近世が天守と石垣を特徴としている。安土城が天守のはじめ。約60年後の寛永期江戸城までの間に、天守様式は望楼型から層塔型に発展した。望楼型とは、二重の大きい櫓の上に楼閣状のものが乗った形式。層塔型とは、何層にも重なった塔のような形式。これが天守様式の基本的分類である。
 2)望楼型と層塔型の違いの一つとして、前者が外観の「重数」より内部の「階数」が多いのに対して、後者はそれが一致しているところである。たとえば、望楼型の犬山城は三重四階であるが、層塔型の名古屋城は五重五階である。望楼型には屋根裏階があるので、階数が多くなっている。
 3)望楼型は前期と後期に分かれるが、その違いは屋根の逓減率の大小である。つまり、前期望楼型は逓減率が大きいため、最上階が小さく物見の要素が強い。これに対して、後期望楼型は逓減率が小さいため、最上階の物見の要素が減少している。前期望楼型の代表例は犬山城であり、後期望楼型のそれは姫路城である。
 4)層塔型も前期と後期に分かれるが、その違いは一重と二重の大きさである。つまり、前期層塔型は一重と二重の大きさが同じで、三重以上の大きさが逓減されている。これに対して、後期層塔型は一重から一定の逓減率で順次大きさが逓減されている。前期層塔型の代表例は名古屋城であり、後期層塔型のそれは寛永期江戸城である。



2、駿府城の歴史
 1)駿府城の歴史は今川館から始まるが、豊臣秀吉の小田原城征伐の時に、徳川家康によってまず天正期の城郭が築かれた。その後、徳川家康が天下を治め、大御所政治が始まる慶長12年5月から工事が始まり12月に天守が完成したが、直ぐに焼失した。これが、慶長期Ⅰ期の天守である。
 2)慶長13年1月から再建工事が始まり、翌年14年に完成した。これが、慶長期Ⅱ期の天守である。内藤昌先生は、この慶長期Ⅱ期の天守を図面で復元した。

3、駿府城の構造上の特徴
 1)内藤先生の研究は、駿府城に狙いを定めてから駿府城に関する史料を収集するのではなく、若い時から全国隈なく建築史や都市史に関する史料を収集することから始まる。その方法で収集した駿府城の史料を基にして、「駿府城学術調査報告書」(静岡市教育委員会、平成2年3月刊)として取り纏めた。
 2)慶長期Ⅱ期の駿府城天守の平面規模は、当代記と慶長日記に記録がある。これを比較してみると、6階について当代記に記載がないこと、2階について当代記が「10間×12間」に対して慶長日記が「9間×11間」と記載が異なっていること以外は全く同じである。したがって、地階から6階まで、平面規模はほぼはっきりしている。
 3)各階の間取りや通柱の位置等を示した史料は見当たらない。しかし、同時期の「福井城天守絵図」には各階の間取りや通柱の位置等が示されているので、内藤先生はこれを参考にして、駿府城第Ⅱ期天守各階平面模式図を作成した。
 4)天守は、城主の権力の大きさと城下町の繁栄の象徴としての意義がある。織田信長の安土城→豊臣秀吉の大坂城→徳川家康の駿府城→名古屋城と造られたが、それぞれの時代において天下人の天守が最大であった。その中で安土城天守は独特で、5~6階は宗教的空間であった。
 5)豊臣秀吉の死後未だ秀頼がいたが、池田家によって大坂城天守に匹敵する姫路城天守が造られると、もはや豊臣家に天下人としての権威はなく、さらに巨大な駿府城天守や名古屋城天守の築城によって、だれの目にも徳川の世であることが明らかとなる。かくして、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅亡させるわけである。豊臣家滅亡後は、一国一城令や武家諸法度で徳川政権を盤石なものとした。
 6)天守一覧図で、現存12天守や名古屋城天守と駿府城天守を、同じ縮尺で年代順にならべ、規模を比較したものである。慶長期までの天守は江戸時代のそれより遥かに大規模であり、慶長期の駿府城は姫路城より天守が大きいことが分かる。ここに天守の意義の変遷を実感できる。
 7)望楼型天守は、通柱と梁で1つの箱を作り、それを積み重ねていく「井楼式通柱構法」という構造である。駿府城では、3階まで通柱を通しており、4~5階、6~7階と三段の箱を重ねている。通柱を通すと堅固な天守になるというメリットがある反面、逓減率を維持できないというデメリットがある。
 8)駿府城第Ⅱ期天守は、銅、滅金、白蠟などの金属瓦が最初に使われた天守であり、絢爛豪華な天守だったと考えられる。徳川の権威を内外に示したかったのであろう。


(文責・事務局長 木宮岳志)